矢田山自然塾代表 松川一人さん
耕作放棄地を農地に変え、環境の復元をしている所があると聞き、訪ねてみた。大和郡山市矢田町。矢田丘陵の麓一帯に広がるのは、近郊の住宅街の存在を忘れさせるような、棚田や畑が残るエリア。このように山と里の間にある場所のことを里山という。
そのなかに「耕作放棄地再利用対策圃場」という看板が見える。問い合わせ先となっているのは、矢田山自然塾。今回お話をうかがった松川一人さんが代表を務める団体だ。
2009年まではここも耕作放棄地だった。それまで会社経営のかたわら、さまざまなボランティア活動や環境保護活動に関わってきた松川さんは、会社経営をやめ、矢田の耕作放棄地に立ち、 矢田山自然塾の活動を一人から始めた。
よそからやってきた変わり者。最初はそう受け取られたことだろう。しかし、松川さんはお年寄りたちにとって負担となる草苅りなどをすすんで手伝い、コミュニケーションを大事にしながら活動を進めてきた。今では信頼関係ができている。後継者のいない農家から「自分たちがいなくなったら、この田圃は使っていいよ。世話をしてくれるなら」と声をかけられることもあるそうだ。耕作放棄地といえども、所有者である農家から信頼されてまかせてもらわなければ、フィールドは広がっていかない。ゼロから始まった矢田山自然塾の農地は、今では、約7000坪(大阪ドーム2個分)になっている。
周辺では、当時も今も農薬や化学肥料が使われている。松川さんはそれは当然であり仕方がないことだと考える。主な担い手は60から70歳代といわれる農業。高齢化したわずかな人手で維持管理するには、伝統的な方法では無理がある。
また、そんな今でさえ、伝統的な農のノウハウは途絶えかけている。昔の農業を知っているのはさらに上の世代、85歳以上の人たちだ。松川さんたちはそんな長老の話を聞き、学術的な研究による知識だけでなくこの土地ならではの実践も学んできた。受け継ぐには、残された時間は多くない。
ここで見える景色は、低くなだらかな矢田山と、農地。一見して誤解されやすいのは、松川さんたちが営農を目的にしていると思われることである。が、目的はあくまでも、里山の復活と保全、それも日本ならではの生物多様性豊かな生態系の復元だ。必然的に無農薬、無化学肥料による農業が行われ、それが生態系の保全と表裏一体のものとなる。そもそも縄文の時代から、こうして日本人の食糧がまかなわれてきた。江戸時代には飛躍的に人口が増えたが、それを養う収穫があった。自然農法は日本人にとって「それが当たり前」の栽培方法なのだが、あまりにも農薬と化学肥料が普及したためか、何か新しいやり方のように思われることに違和感があると松川さんは言う。
松川さんたちは、なぜそこまで里山にこだわるのだろう。わたしたちの生活は、すでに里山の必要性(食料や燃料の自給)から遠く離れたところでまわるようになってしまった。里山はわたしたちの今と未来にとって、どんな意味や役割があるというのだろう。
里山とは、ただ地理的に山と人里の中間地帯を指すわけではない。「水と空気、土、カヤ場や雑木林から屋敷、納屋、牛馬小屋、畑、果樹園、竹林、植林、溜池、小川、水田、土手、畔など、一連の環境要素が一つながりになった暮らしの場」である。(一般社団法人里山自然農法協会ホームページより)
人の暮らしの場ではあるのだが、実はここが多種多様な微生物や動植物が生息する場所でもあるというのがポイントだ。
微生物が土を肥し、植物を育てる。植物を食べる虫もやってくる。水辺には水棲生物が生息する。虫を食べるカエルなどの小さな生き物がやってくる。さらにこれらを餌とする肉食の大型鳥獣が生活する。
それでいて、人間の生活と敵対するというより、むしろそのシステムを知恵で利用し、農耕地のほか、日常生活に必要な資源も調達した。広葉樹は燃料になり、草や枯れ葉は肥料になり、竹は竹細工の材料になり、田畑で作物が栽培され、わらびやきのこなど自生の食料も得られた。そして世代を経て子孫が生き残り豊かに暮らしていけるよう、里山の自然環境に手を入れ、整備することを怠らなかった。
昭和30年代ごろまでは、里山は健全なかたちで役割を果たしてきたが、それ以後の経済成長とともに、里山の守り手である人間(農家)がいなくなっていった。若者が農業から離れ、農家の高齢化が進み、休耕地が増えていく。生態系の宝庫は経済的価値のない場所となり、かつては生活をささえたはずの孟宗竹が旺盛な生命力で竹林化し、鳥が運ぶ種によって木が生えて、手入れされることのない雑木林と化し、果てはゴミの不法投棄も見られるようになっていく。
そんな中、矢田丘陵では、本来の里山への復元活動が続いている。
矢田の里山では順調に米が育つし、野菜もとれる。野菜は連作しても障害が出ないという。農薬も化学肥料も使わずに、本当に作物が育つのだろうか。本当に連作しても大丈夫なのか。これは趣味程度でも野菜を栽培した経験のある人ならば、納得しにくいことではないだろうか。
もちろんそれにはわけがある。化学肥料に依存しないためには、それだけ土が肥えていなければならない。土が肥えるとは、枯れた植物や動物が排泄したものなどが微生物によって分解されるということなので、薬によって微生物が死滅していれば、それは死の土壌となる。10年近く耕作放棄地であった当地では、雑草が生えては枯れる繰り返しの中で毒素が取り除かれ、もとのバランスに戻そうとする治癒力が働いていた。
自然の摂理に従う農法で整備されることによってこそ、続いてきた里山。その里山は、地球環境の危機が認識されるようになるにつれ、再び見直されるようになってきた。
米という字は、八と十と八を縦に書いたものがもとになっています。八十八の手をかけて作るという意味です。里山で自然農法を行うとなれば、人手はいくらあってもいいのです。しかも、体力仕事や機械仕事だけでなく子どもからお年寄りまで、「誰かが」「何かできる」仕事があります。矢田自然塾では、専門スタッフや、ボランティアのみなさんの力で農地を守っていますが、誰でも見学や農体験が可能です。また、もちつち大会や田植え体験などのイベントも企画し、楽しみながら気づきへのきっかけにしてもらえたらと考えています。また、里山そのものを自然共生型のテーマパークにし、文化の発信基地にしていく構想にも取り組んでいます(詳しくは10月発行の俚志秋号で紹介できる予定)。
赤ちゃんづれのお母さんに里山体験をおすすめします。里山には微生物から小動物にいたるまで多種多様な生物が生きていて、その成分が空気にまじっていますが穏やかなので赤ちゃんが遊んでも平気。3歳までに、こんな場所で遊ばせると体内に免疫が作られ、成長したときにアトピー反応を起こしにくくなります。
近県の小中学校から環境教育の場として使わせて欲しいとの申し込みが相次いでいます。特に都会生まれの子どもたちは田圃や畑に接する機会がまったくない場合もある。ここでの子どもたちは、ぬるっとした田圃に足を入れた感触に「きゃー」、実物を見るのは初めてという昆虫に「きゃー」と大はしゃぎです。幼児はどこんろ遊び、小学生なら田植え、中学生になると草刈りなど、年代にあわせて何でもコーディネートできる。生き物の楽しさ、自然の気持ちよさ…子どもの頃に体験すれば忘れることはないでしょう。
大学まで進学しながらも、学内での人との関わりがうまくいかない学生がいました。彼はここで生き物調査に没頭し、やりがいを感じ始めています。
今企業がすごく悩んでいるのが社員の心の病の問題です。鬱と診断されて会社を休む人がいても、お給料は(全額でないにしろ)払わなければなりません。一度心を病んだ人が復帰できる場所は限られており、福利厚生がきちんとしている会社ほど、実は大変な負担になります。そのような人たちが生きる実感を取り戻す場所として生物多様性豊かな里山で作業するシステムを作れないかと考えています。専門知識や技術のあるスタッフがノウハウを伝授し、ともに汗をかきながら、ここで安心安全な食料を作り、それを社員食堂というかたちで還元する、というふうに。不登校の生徒たちが給食の食材を作ることもできますね。
なんらかの障害があっても、その人にできることが農の場には必ずあるものです。農体験は世話した作物が育つという結果を生んでくれますので、達成感をともないます。里山での安心安全な環境の中で福祉的な支援に結びつけることも考えています。
あなたが自然に生息するメダカを見たのは何年前だろうか。子どもたちは自然のメダカを知っているだろうか。絶滅危惧種となってしまったメダカが、この里山では繁殖している。メダカだけではない。「モリアオガエル」「ヤマアカガエル」「ヘイケボタル」「タイコウチ」…いなくなったと思っていた生き物も、人の目の届かないところで密かに生きており、条件が整った時には繁殖する。わたしたちはそれを「帰ってきた」と感じる。手をかけたことに応えてくれる自然の力が、まだまだ残っている。
自然に従えば、そして環境を守れば、この世界にはまだ希望が残っているということを里山がわたしたちに教えてくれる。 これを里山の機能として数えていいのかどうかわからないが、個人的にはこれが一番大きなメッセージであるように感じる。生き物たちでいっぱいの場所は、気のせいかもしれないが、そこに立つだけで体調がよくなるような気持ちよさがある。どちらかというと虫は苦手なはずの筆者も、彼らの生息によって保たれる循環があることを思うと愛らしく見えてくるのだった。
このような里山が保全されるためには、絶滅寸前ともいうべき伝統的な農の知恵と技術を学び、里山を守る担い手の存在が欠かせない。農業から人が離れる時代の中で、誰が担うのか。松川さんはその人材を「里山自然環境整備士」と呼び、育成にも力をいれている。次号ではそれについて紹介したい。
矢田山自然塾は、大人も子どもも農や生物多様性豊かな自然に親しむ開かれた場所であると同時に、一般社団法人里山自然農法協会が主宰する一風変わった資格認定のための実習フィールドでもある。今回は、里山を復元し保全する担い手として期待されるこの資格について、矢田山自然塾代表でもあり、同社団法人の仕掛け人でもある松川一人さんに前号に引き続き話をうかがった。
里山とは、人と自然の営みが重なり合って形成されるビオトープであり、伝統的な農法(=自然農法)によって保たれてきたものであることを前号で触れた。
その一方で、伝統的な農の知恵と技術は絶滅寸前であり、その知識と技術を継承し、里山を守る担い手となる人材を育成する必要があると考えた松川さんは、矢田山自然塾を開くのと前後して、賛同者を集め2009年に一般社団法人里山自然農法協会を設立し、 里山自然環境整備士という専門家の資格認定を行っている。 今、食べ物のありかたやライフスタイル、経済的なシステムに疑問を抱き、就農を希望する人も増えてきているが、同時に挫折し、展望を失う人も後をたたない現実があるという。自殺寸前まで追いつめられることもある。
趣味の延長として、あるいは自由度の高い自営を兼業しつつ自給を主な目的として生活に農を取り入れる範囲ならばリスクは少ない。
しかし専業的な就農となると、 経営的に軌道に載せるには大変な苦労をともない、限られた人だけが生き残る結果となっている。
それだけでは、里山が失われるスピードに対して「間に合わない」と松川さんは考える。新しい経済システムを創出し、職業として成り立つだけのものにしない限り、人材の育成だけをしていても、里山の将来は暗いままだ。
里山自然環境整備士上級者がプロとして活躍する未来像とはどんなものだろうか。それは前号でも触れたように、現代社会の課題を解決することにもリンクしている。里山自然環境整備士は、農的実力派の環境コンサルという捉えかたもできるかもしれない。その人件費が、農作物を売った収益に頼らないところから発生するしくみを作りたいというのが松川さんのビジョンだ。
ある村から、観光資源にもなっている棚田の風景を残したいが、高齢化にともなって担い手を失っており、松川さんに相談がきたとする(このようなことは実際にあるそうだ)。たとえばそこに上級者を配置して、行政に対して、必要な施策を提言したり整備士自ら率先して現場で実践的な模範を示すことができるし、関わる人にアドバイスもできるだろう。これが実現すれば、この場合は村から人件費が支払われることになるだろう。
また、精神的な病気が原因で休業中の社員のケアとして、里山での農作業の場を提供し、作物を社員食堂の食材として使うという場合であれば、企業から人件費が支払われることに。
2011年7月から、ホームページで里山自然環境整備士の必要性を呼びかけ、受験の希望を募ったところ、若い人たちを中心に全国から希望者が集まるようになった。今のところ、初級認定者は200人、中級認定者は60人になっている。上級認定者も、近いうちに6名が生まれる見込みだそうだ。
自作したい、今の仕事に生かしたい、里山の保全に関わりたいなど、受講志望の動機はさまざまだが、若者の間に今何かを変えなくてはという直感が働いているようだ。
そういう気持ちをうけとめ、社会に根付く職業として確立させるべく、松川さんのチャレンジが続いている。
また、松川さんは、この資格を必ずしも就農することだけを目的にする必要はないとも言う。どんな職業であれ、どんな事業であれ、生物多様性の摂理を知り、自然を敬う心で取り組むことにより、必ずいい変化が生まれると思うからだ。
次号では、中級認定者として矢田山自然塾をフィールドに日々奮闘する若者たちの思いを追ってみたい。
矢田丘陵にある耕作放棄地を里山へと復活させる矢田山自然塾の活動を追ってきた。ここは、一般社団法人里山自然農法協会が主宰する里山自然環境整備士(Eco-Circulation Planner 略称ECP)の中級資格取得のための研修フィールドでもあり、研修そのものが復活活動を兼ねている。里山再生の重要性はよく耳にするが、実際にその担い手となる人は多くない。どんな人が、どんな思いで、この活動に携わっているのだろうか。今回は、ECP中級認定者として活躍する一人を訪ねてみた。
矢田丘陵にある耕作放棄地を里山へと復活させる矢田山自然塾の活動を追ってきた。ここは、一般社団法人里山自然農法協会が主宰する里山自然環境整備士(Eco-Circulation Planner 略称ECP)の中級資格取得のための研修フィールドでもあり、研修そのものが復活活動を兼ねている。里山再生の重要性はよく耳にするが、実際にその担い手となる人は多くない。どんな人が、どんな思いで、この活動に携わっているのだろうか。今回は、ECP中級認定者として活躍する一人を訪ねてみた。
中川雅浩さん(33歳)。矢田の里山で兄貴的存在感を放つECP中級の有資格者だ。
車が大好きな少年だった。町の中で生まれ育ち、野山で遊んだ経験はないし、虫も嫌い、カエルは触れなかったという。10代の頃から、本気でラリーのレーサーを目指していた。周囲の奨めるがままに大学に進んだものの、求めるものが見つからないまま無駄な時間を過ごしているのではないかと悩んでいたとき、レースの世界に入門するチャンスを得て、迷わず退学した。
「母は悲しかったかもしれません。父は援助してやることはできないが、自分の信じた道を進んでみろと言いました」
アルバイトで生活しながら、夢にかける日々。国内では期待されるまでになり、夢に近づいた手応えを感じるところまで頑張ったが、25歳で引退することになった。
「全部やめて、全部なくしました。生きているけど、生きていないっていうか…」
引退してからは、スキーや自転車など、それまで興味がありつつも手付かずでいたことを体験し、活動的に過ごしていたのだが、一度は全てをかけたはずの夢を捨てた心の空洞は、簡単には埋まることはない。なぜ生きているのだろう。生きていく価値や意味があるとすれば、何なのだろう。どこにあるのだろう。深い疑問の答えを探るように、心のむくままボランティア活動や環境保護の分野にも関わるようになり、今まで読まなかった分野の本を読みあさった。仕事は車の運転を生かした運送業。窓からは閉塞した空気のただよう町が見えた。このままでいいのかな。自分も、世の中も…。
そんな日々の中から「安心できる生き方がしたい。自分の食べる米は自分で作りたい」という思いが湧いてくるようになった。
2010年の春。身近なところから転機はやってきた。親しい人から「松川さんという人がいるけど、会ってみる?」と誘われたのだ。
最初の会話を中川さんは今でも覚えている。「農業がしたいんか?」と聞かれた。答えるかわりに、胸のうちを明かすと、「おまえって、社会貢献がしたいねんな」と言われたという。その言葉でいいのかもしれなかったし、わからなかった。でも、ここに何かがあると嗅ぎつけてから、中川さんは休日のたびに矢田の里山へ通うようになった。
2011年、ECP中級の資格を取り、決心を固めてそれまでの仕事を退職、昨年の4月から矢田山で研修生として働いている。 今では、 ボランティアメンバーとしてではなく、頼もしいスタッフとして松川さんの傍らで作業をこなす。
研修生となってからは、矢田山自然塾のブログも担当し、カエルや虫の表情をとらえたり、体力の限界まで作業に没頭したりといった、活動の様子を伝えている。その中に、田植えの時期に書かれた「激しい口調をお許しください」というタイトルの記事がある。その一部を紹介したい。(以下「 」内はブログより)
「日程の都合が合わず、急きょよそから取り寄せたお米の苗は、よく見たら籾(米粒)が赤かったよ。
もう一回言います。
米粒が赤かったよ。
それを田んぼにつけたらさ、
半日でカエルもメダカも
みんないなくなっちゃった。
住めないんだよ、毒がきつくて。
それだけでももう誰も住めないのに、まだ虫の害が怖くて、さらに薬撒くんでしょ?
どうかしてるよね、もうどうもならないってば。
もう十分殺虫したでしょ?
まだ殺るの?」
たしかにその他の記事とは口調が違い、 体をはって現場を体験したうえでの衝撃が伝わってくる。 3年前までカエルも触れなかった若者の、叫びに似た言葉。
「人間は、人間だけでは生きられません。水と、空気と、土がなければ生きられません。それを作っているのはだれですか?彼らです、彼らなんですよ。」
ここに来るまでは、「自分なりの小さなプライドや知ったかぶりで生きてきて、ふと気がついたら自分には何もなかった」という中川さんは、今こう思う。
「そうか、僕はただ学びたかったんだ。何かになりたかったわけじゃない。どこかへ行きたいわけじゃなかったんだ。
ただただ学んで、新しい、本当の自分に会いたかったんだって。」
何かにならず、どこかへ行かず、学びたいものは、もうお米の作りかただけではなくなってきた。政治、経済、福祉、環境問題…を含む世の中のしくみを知ること。あらゆる面での現場力を持ったうえで、社会にプ
レゼンできること。それを次の世代へ伝えることのできる人になること。視線の先には未来予想図が広がっている。
矢田山自然塾を舞台に、一年をかけて、中川さんら中級認定者たちを中心とした活動や言葉を綴ったドキュメント(45分)。監督の寺島彩子さんもECPの一人。
美しい棚田の風景は消えつつある。整備されて直線的な区画に変わることも、農地でないものへと転用されることもあるし、見捨てられたか、やむなくか、放棄されることもある。耕作放棄地とは、農作物が一年以上作付けされず、農家が数年の内に作付けする予定が無いと回答した田畑、果樹園。
人の手がかけられなくなった田畑には雑草が生い茂り、やがて竹が繁殖し、原野化、森林化が進む。一定期間を過ぎた放棄地をもとの農地に戻すのは困難と言われている。
今から数年前、奈良県大和郡山市にある矢田丘陵でも耕作放棄地は広がりつつあった。そこに単独で草を刈り始めた人が現れる。松川さんの里山復活プロジェクトが始まったのだ。
松川さんは1962年、大阪府堺市生まれ。幼い頃は、母方の実家のある三重県熊野市の山間部で多くの時間を過ごした。自然を相手に遊び回り、農作業の手伝いをさせられることも多く、都会に生まれながらも、里地里山での農的な原体験をもつ。
20代から30代にかけては、経営者として、いろんな事業を経験した。そのかたわら「世界を見たい」と視野は世界へも広がった。そこで選んだのが、アジア・太平洋地域で農村開発や環境保全活動を展開する国際NGOのボランティア活動だった。
ボランティアとしてその土地や人に直接関わり、自分の目でその国の実態を知りたかった。その多くは、かつてヨーロッパ諸国の植民地としての経験があり、そこから独立を勝ちとるという険しい歴史を背負う国々。経済的には、バブル時代を経た当時の日本よりもはるかに貧しかったかもしれないが、松川さんはそこでアジア諸国の底知れない強さを感じ取ったという。日本はむしろ、精神的な後進国に見えた。
「プライドを持たない、ただの金持ち。失っていくものに気づきもしない…」
しかしそれと同時に、日本のありがたさを痛感した。日本では種を蒔けば芽が出てくるのはごく普通のことだが、世界にそんな国は無に等しいという。便利な道具や機械もなく、厳しい現地の土地に立つと、幼い頃に駆け回った熊野の風景が思い出された。
土地の肥沃さ、水の豊かさ、本来の日本の風土の素晴らしさに、NGO活動の中で覚めた。だが、後に自分が里山の復元を事業化しようとは、まだ夢にも思っていなかった。
帰国後、事業を続けながらも、静かに転機が訪れた。ふとした時に、頭の中をよぎっていくのは、「農的なこと」「環境のこと」「雇用のこと」…。かつて、ボランティア体験の中で思った母の故郷の自然豊かな風景、「里山」の中にこそ、答えがあったのではないかと松川さんは気づいた。人の営みと、多様な生物の営みが、征服や破壊ではなく調和をもって共存してきたではないか。有史以来ともいえる時間に磨かれた、日本と日本人が失ってはならないものが詰まっていると思った。
その里山は耕作放棄地へと姿を変え、食の安全性や食料自給率の低下が心配されながらも、解決策としては 例外的な場合を除き、皮相的な取り組みに留まる事例が後をたたない。思いのある若者の就農も、なかなか成功しない。このまま里山が消滅したとき、失われるのは目に見えるものだけですむのだろうか。牧歌的で懐古的な発想ではなく、これからの社会に現実的に里山が必要とされるためには、どうすればいいのだろう。そのヒントも里山にあった。 2013年春。最初の取り組みから3年を経た矢田丘陵では、里山自然環境整備士(俚志11号22ページ参照)の研修が行われていた。学んでいるのは20代〜30代の若者だけではなく、早期退職し第二の人生を考え始めた壮年達。各分野の大学教授をはじめ、多様な部門の経営者の方々の協力を得ての研修事業である。第一期生の中級整備士は、スタッフに回っていた。
うららかな天気の下で、松川さんは若者が希望をもって里山や生物多様性を学ぼうとする姿にも、教える側がそれを喜んで生き生きとしている姿にも目を細める。「ものづくり、ひとづくりが好きで、面白いことが好き」と自称する。
一年間を通じて矢田山に通い、松川さんを見てきて思うことは、事業家というイメージの裏側に、いつも一番下で働く人、声をあげられないけれども苦しむ人を笑顔に変えたいという動機が見え隠れするということだった。
自然界は弱肉強食とも言うが、微生物から肉食動物までの連鎖が調和して成り立ち、結局は互いを生かし合っている。一番小さく、弱いものが崩れるとき、強かったはずの生き物の基盤は失われる。人間も生物多様性の中のひとつにすぎない。
社会的には強者であり続けた人が、生物多様性を説き、小さい生き物から始まる調和を守る側に回ってきた。奈良から里山を復活させる試みはまだ、始まったばかりである。
俚志10号(2012年夏号)〜13号(2013年春号)より。