さとびごころ26号ができあがりました。
季刊で発行されているさとびごころの夏号ができました。(発行人は大浦悦子さん)
編集委員として、ほとんどのページに関わっていますが
その中でも自分が直接担当したものをご紹介します。
「特集 川の民俗」の中で、「交通路としての川」を企画しました。
大和川が奈良盆地の水が集まるところであることは、今ではあまり意識されていないと思うのですが
法隆寺がなぜあそこにあるのか、河合という地名があって、そこから三角縁神獣鏡が見つかっていることなど
王寺のあたりが、古代から海と大和とつなぐ大事な場所だったっていうのを
何かでお伝えしたいと思っておりました。
そしたら、王寺町の学芸員でいらっしゃる岡島様が、近世の物流のことにお詳しいことがわかり、
ご縁をたどってお会いさせていただき、原稿をお願いしてみたのです。
快く引き受けていただいたとき、ほっとしました(小心者なため、いちいちほっとします)。
こんど王寺町方面へおでかけのときは、物流路としての川のこと、思いだしてみてくださいませ。
写真撮影のため、寺川の浜の跡地へも行ってみました。
かつての要所も、今はごく普通の川になっています。
農薬なのか洗剤なのか、川の水が泡立っていました。
歴史を知ることで、今の川のことも、少しでも大切に思う気持ちにつながればと思います。
また、魚梁船のはじまりにゆかりのある龍田大社にも行きました。
Googleで、検索してみてください。鎮守の森の広さにびっくりです。
大切な神社だったのだなあと、思いました。
特集ではもうひとつ、「谷先生といく川遊びネイチャーウオッチング・レポート」に関わりました。
谷先生とは、過去記事でもふれましたが、昔からお世話になってきた方です。
編集会議で、「子どもさん連れでも楽しめるような観察会をして、それをレポートしよう」ということになったとき、
子どもさんのハートをわしづかみにできるのは、谷先生こそぴったりだと思いまして、
お願いしてみると、これまたご快諾いただき、
この度のイベントになりました。
ひさびさにイベントをコーディネートして、冷や汗もかきましたが
とても楽しかったですし、北井弘さんのレポートもばっちりです。
自然観察系のイベントは、情報がいきわたりにくかったり、都合の合わない方が必ず出てくると思いますが、
小さなイベントがいろんな方々によって、日常的にたくさん行われるといいなと思います。
それがきっかけで、「自分らしい自然と調和した暮らし方」が見つかるといいなと思います。
そのひとつとして、自分もまた機会があれば、イベントを企画したいなあと思いました。
特集は、こちらからお読みいただけます(^^)
http://satobigokoro.org/wp/wp-content/uploads/2016/07/26tokushu.pdf
続いて、「奈良の文化と生物多様性」
生物多様性の話を、学術的になりすぎず、
わかりやすく親しみやすく書いてくださっている近大農学部の北川先生の連載。
北川先生とは、数年前、粟の三浦さんのご縁でつながりました。
夫が勤務するぷろぼのも、ペタキンの里親にならせていただいています。
そんな北川先生に、さとびごころでも書いていただけることになり、今回は2回目。
人間以外の生きものたちのことを理解すると、人間のことも自然のことも
大切に思えてきませんか。
北川先生の「生きもの愛」が伝わってくるこの連載が、わたくし、いつも楽しみです。
そして、今回からの新連載は、谷林業の谷茂則氏による
「十四代目林業家 ドタバタイノベーション奮闘記」
っていう、ご自身の奮闘ぶりを、けっこう赤裸々に書いてくださっているものです(!)
奈良県が吉野林業で有名であることはみなさんよーくご存知と思いますけど
日本はどこでも森林率60%越えのところが多く、その中で吉野林業がどんなふうにユニークなのか、
どんなふうに価値があるのか、ご関心のある方は多くないのではないでしょうか。
わたしも、奈良を理解するなら吉野林業ははずせないと思い、
「黒滝村・川上村・東吉野村」という地名や、「山守制度」というシステムを
知識として持っていたことは事実です。ですが、なかなか、奥が深いというか、
ふだんの暮らしとの結びつきがピンとこないという状態が長いあいだ、ありました。(今も知らないことがたくさんですが)
最近あらためて気づいたことは、他県に比べて国有林が少ない、ということ。
民有林が多いのです。誰かが「持っている」のです。
その中で、小規模な山主さんがたくさんいらっしゃる一方で、
近世以降、村外の富裕な人が大きな面積で所有者になられた
(=山村の人たちが、自分たちの林業を手放さないかたちで出資者を求めた)ことから
山守制度というものが生まれていったようなのです。
わたしにとって、その大規模所有者の方というのは、実在性に欠け、どこにいらっしゃるの?
という疑問がありました。吉野の山を見つめていても、わかりません(あたりまえか)。
それが、ご縁がありまして、吉野の大林業家の一つと言われる谷さんと出合い、
いろいろと奮闘されていることを知りました。
それについてを「書いてみませんか?」とお勧めしたところ、「やってみる」とのご返事をいただき、
今回からのスタートです。今「岐路に立つ」と言われることの多い吉野林業。
十四代目は、山に向き合うことにしました。さあ、これからどうなっていくのでしょう。
連載「家族野菜のある食卓」
今や、全国区の人となられました三浦夫妻は、実はNPO法人清澄の村を設立された頃からのおつきあいをさせていただいています。
レストラン、ヤギくん、大和野菜、、、いろんな角度から、マスコミに登場され、
ちいさなマガジンに登場していただいてもいいのかしら・・・と遠慮しつつも、お願いしてみたのが21号のとき。
「農」的な要素を、人それぞれの深度で、暮らしに取り入れてみることの提案でした。
大和野菜のことを背景やレシピとともにご紹介することで、食べてみたいと思っていただけても嬉しいですし、
ベランダでもいいから、何か育ててみたい、、、、と思っていただければなお、嬉しいと思って担当させていただいてます。
本物の大和野菜料理を食べたい方は、「粟」さんに、ご予約ください(^^)
今回は、最新研究のドロガワイモをご紹介いただきました。
それと同じくらい、ぜひ読んでいただきたいのは「ヒトコト」の部分。
三浦さんが大和野菜に取り組むようになられてから、
結崎ねぶか、とか、大和まな、とか、メジャーになった野菜たちも増えました。
それといっしょに、種を守って繋いで来た人の
「家族がおいしいって言うから」の気持ちを、わたしたちも繋いでいきたいですよね。
農薬とセットでなければ育たないような種は残したくありません。
ビジネスの都合で遺伝子を操作されたものも、残らなくてもかまわない。
先人が、もともと、その土地に合った種を人間に与えてくれていることを
忘れたくありません。大和野菜の種こそ、未来に残ってほしいと願います。
忘れられそうで、忘れられたくないものとして、今回企画したものがあります。
みなさんは、民映研(民族文化映像研究所)をご存知ですか。
いやほんと、びっくりしますよ。なんといいますか、、、、「先住民族としての日本人」を見る気持ちになります。
もともと、人間というのは、山のほうに住んでいたのですよね。
都市ができたのは、歴史の中では新しいことなわけです。
横道にそれますが、こんな記事をみつけました。
なぜお婆さんたちのご先祖は、代々ここで暮らしていたのか? それは戦乱で日本が貧しく、インフラが未熟だった時代(間近では昭和20年代)には、都市に住んでいるよりも、山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。こうした集落の多くは平家の落人、戦国時代起源の伝説を持ち、新しいところでは敗戦直後の満洲帰還者の戦後開拓として始まった所が多いのです。先のお婆さんも、戦後の飢餓の時代も麦があったから食べ物には困らなかったと言っていました。彼らは自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける力を持つ、逞しい知恵と力の持ち主です。食べ物を収穫し、うまく保存し、炭を作り、製材をする。先行きの見えない今の時代、人が最も必要とする確かなものではないかな、と思うのです。
現代人は山里を不便なところと思いこんでいますが、身一つで住み着いて生き延びられる所は、本来平野部や盆地の中央ではなく、山裾だったのだと思います。平野部の江戸、名古屋、大阪の都市は、治水と流通が整備された太平の17世紀以降に初めて都市化が可能になった場所です。山歩きを通してそんなことに気が付きました。(昔の人はなぜ不便な山村に暮らしていたのかより)
山村にはサバイバル技術がいっぱいあります。(さとびごころの取材で出会った「たっちゃん」こと、辻谷さんのお話を聞いていても思います。)
それが上記の引用からも伝わってきます。
山村に生きた人たちをはじめ、人々が自然とむすびつきながら生きていた文化を映像で残し続けた人が姫田さんです。
奈良でも姫田さんの映像を上映する活動をしている人があることがわかりました。そして、その方の文章を通じて、姫田さんのことをご紹介させていただきました。
奈良民俗文化研究所の鹿谷さん(今回は特集でも書いていただいています)にもご協力いただきました。ありがとうございます。
前置きナガスギですが、この記事です。
長くなりましたね、このページ。
次のページに分けることにします。
特集以外のページはこちらからご覧いただけます。