「希望は彼らですね」
雑誌を読んでいて、ここにメモしたくなりました。
作家の高橋源一郎さんの言葉。
「いまうちの学生たちを見ても、本当に非正規雇用に就く者が多い。」
「局所的な、自分が知っているコミュニティを中心に照らすことさえできれば、
とりあえず、そんなに間違えないでやっていけるっていう直感があると思うんですね。
いまの若い子たちを見ていると、けっこうセンスいい。
『車買おう』とか言わないし、
モノを持とうとしないし。
なんかね、ある意味『絶対的貧乏化』にしたがって、
心身を進化させている(笑)。
そしてもうちょっと繊細なかたちで世界と向かい合おうとしている。」
「世界よりも、とりあえずこのなかでまずなにが一番やるべきことで、
それはどこにつながるかというふに思考の順番を逆にしていく人たちっていうのが、
僕の見ているかぎり、本当にいろんなところに出ていていて、希望は彼らですね」
哲学者の内山節さんの言葉。
「全体を創造するなんてことは、しょせん人間の能力を超えてくる。
だから、そういう局所的なものがあって、
そこがつくりだした波紋がどこかで
交差しはじめている。」
「いま、社会的に見れば
あきらかに弱者といってもいい人たちが、
その弱さを補うためにまさにいろんな関係をつくって、
自分たちの小コミュニティをつくって、
生き延びる方法をつくりはじめている。
これは、なかなかおもしろくなってきたっていう感じがしますね」
ここまで。
出典は『季刊地域18号(2014年夏)』特別対談 高橋源一郎VS内山節
なんだか、いろいろと腑に落ちるのです。
弱者とされる人たちというのは、
低収入であるとか、重病や障がいをもっているとか、高齢者であるとかを
さすことが多いと思います。
この対談では、それを支える人たちが
(発想を逆転することによって)
「生きる意味を強く感じられるようになる」
とも書いてありました。
経済的豊かさという指標でもってみると
切り捨てられることの中にも
「ポジティブ」な意味が含まれています。
それは必ずしも「貧しい」ということでなくて、
指標の種類が違うということだと思います。
今、局所的に「照らされている」場所が
いたるところで生まれている、という感覚が
わたしにもあります。
あとは、その場所の住人たちが
他の「照らされた」場所の住人たちと交わったとき、
メンツ的な勝ち負けにとらわれたり、批判したりするのでなく、
(もう、そんなことは、あまり何も生まないし楽しくないと思いませんか)
同じ光の部分をわかちあい、
それぞれに自立しながら
ゆるやかにつながっていくことではないかと
思っています。