秋の気配。お盆を過ぎたらいつも感じる。今朝の畑活。
朝がほんの少し涼しく感じた。日中は猛暑の予報なんだけど、これからは朝夕だけは涼しくなっていくんだな。そして秋が始まっていくんだ。
糸トンボがやってきた。
ベランダのケヤキも、もう小さな葉っぱの芽を出さなくなった。じっとしている。そのうち、葉が茶色くなっていくんだ。
秋の気配だ。
灰と炭を撒く
今日は、豆の足元に灰と炭の混じったものを一握りづつ撒いた(師匠のお告げ)。
師匠は、畑にどこからか見つけてきたバスタブを置いていて、その中で木を燃やす。
「いい木」ばっかりを燃やしているという。どんなのがいい木なのか。樹種を指しているのだろう。たぶん広葉樹?
釘も混じっている。鉄分補給になるという。灰はカルシウム。炭は菌ちゃんのすみかになる。
枝を折って植えたトマト
バジルのとなりにコンパニオンプランツのトマトを植えてある。
これは、師匠が育てているトマトの枝を折って、カラカラに乾いてみえる土に挿しただけのもので、活着するのか気がかりだった。水やりもしていない。でも、枯れずに生きている。畑の土は表面は乾いていても、スコップで掘ってみるとしっとりしている。この水分を求めて根を伸ばすんだろうな。ベランダなら1日で水切れを起こす。畑はさすがだ。これをチェックすると、ほっとする。バジルには虫もやってくるけど、それほどいじめられた様子はなく、青々と茂っている。昨日は、摘心を兼ねて少し収穫し、ランチのパスタの材料にしてもらった。存分に食べるために、ベランダで育成中の苗をここに引っ越しさせてバジルゾーンを広げることにしよう。ベランダで苦しく育つより、ここに来るほうがバジルも喜ぶだろう(そのぶん、ベランダは寂しくなるけど)。バジルは9月中は、食べられるんじゃないかと予想。花が咲かないように、気をつけよう(花が咲くと終わっていく)。
メッシュの中の幼いきゅうり
きゅうりはどうしているだろうか。
メッシュの中で元気にしていた。メッシュに穴があいていて、バッタが多数侵入していたので、今日はその穴をテープで塞いだ。コンパニオンプランツのネギも、新しい小さな葉を伸ばし始めていた。生きてるなあ。1日、2日の間に変化していく。
勝手に育つカボチャ
帰り際、師匠のコンポストのそばで勝手に育っているカボチャを見るのが常だ。
コンポストは、底のない蓋つきの容器で、土に直接つながっている。そこに野菜ゴミを投入していくと、古いゴミから先に堆肥化していく。毎日生ゴミを投入しても、いっぱいになることはないほどに、分解されていく。当然ながらコンポストの周囲の土は肥えていく。おそらく、野菜ごみに混じっていたタネが、コンポストと地面の隙間から発芽したのだろう。カボチャのツルが伸びてた。わたしたちが畑活をスタートした頃、カボチャはコンポストに寄り添うように育っていたが、今はツルを伸ばし、一段高くなっている師匠の敷地まで上がってきている。そこに師匠は支柱をたてた。これからは、この支柱に絡まりながら成長していくのだろう。カボチャは一つの苗に雄花と雌花が咲くそうだ。受粉すれば結実する。勝手なカボチャの実はなるのだろうか。
わたしたちも、毎日(今日で二日めなんだけど)コンポストに我が家の生ゴミを投入するのを楽しみとしている。蓋をあけると、まだまだ深い底にちょろっと溜まっているだけだ。冷蔵庫の中では存在感のある生ゴミタッパーだが、ここに投入すると、 ほんのちょっとに見える。これが堆肥化するのはいつのことだろう。うちのコンポストの足元からも、何か発芽するのかな。
コンポストはある程度(どの程度かはその時になってみないとわからない)の時期が来たら、場所を移動するといいらしい。肥沃ゾーンが増えていくことになるんだろう。
毎日が幸せで、このサイクルがあればずっと幸せなんじゃないかと思えるほど。
われわれはまだ何一つ、野菜を収穫していない。苗を育てているに過ぎない。けれども師匠が「断らなくてもいいから、勝手にとっていき。うちでは食べきれないんだから、熟し過ぎて終わる前にとっていけばいいねん」とおっしゃってくださるために、ナス、ピーマン、トマト、きゅうり、ししとう、サツマイモ、、、と、次々に頂いている。
それがごはんのおかずになる。昨夜は、サツマイモたっぷりの味噌汁を隊長が作ってくれた。
気のせいではないと感じる美味しさ(おいしい野菜には、甘みとは呼べないほどのかすかな甘みと旨みがあり、えぐみがない。子どもたちが野菜を嫌うとしたら、美味しい野菜を食べていないからと思われる。若い人たちの多くは、美味しい野菜を知らずに育っている。野菜の名誉を回復しよう。ほんとうは美味しい食べ物だ。旬の野菜は本来は体が求めているもので、なおさら推美味しい。自分たちが少しでも関わった農地からとれたものであれば、さらに美味しい)。
わたしは、有機野菜が体の不要な成分(毒素?)を浄化してくれるという説を支持している。自然は、本来に戻ろうとする方向性を持っている。本来とは健全なのだ。本来に近いものを食べれば、体は健全に近づく。それがありがたい。
家族で食卓を囲む和やかさがありがたい。 現代は核家族が当たり前になっている。子供は親元を離れて自立するのが当たり前で、そうでないと「甘い」とか「一人前ではない」とか、言われている。もちろん、親が子供の自立を望むのは当然だ。親はいつか死ぬから。けれども、親子の縁が断絶する必要はない。一生仲良くやっていきたい。我が家には次男が同居しているが、今のところいっこうに家を出る気配がなく、満足そうだ。そのかわり、働いてもらっている。技術やノウハウを身につけて、仕事のうえでの独立を目指している。いつかは家を出る日がくるかもしれないし、逆にわたしたちがどこかへ引っ越すかもしれない。その日まで、食卓を囲む日々を愛おしみ、楽しみたいと思う。
隊長は、わたしたちが一口食べるのを、ときめきながら見ている。
次男が「うん、おいしい」と小さな声で言う。
隊長は、安心してにっこりする。
今夜も、隊長はごはんを作ってくれる。仕事からもどると、ごはんができているなんて、嬉しいな!幸せだな!