なぜ、そんなに継ぎたかったのかな。

2019年09月08日

奈良市と宇陀市の境界近くにあるエリアが、奈良市都祁(つげ)吐山(はやま)町。
寒地性植物のスズランが自生する南限地として知られている。(まだ群生は見たことがない。見たい)

このあたりは、雑誌の取材で訪れた高橋周一さん(※)の家も近い(お元気かな。また行ってみたい)。

※さとびごころ 24号(2016 winter)特集「3.11と奈良」
 「故郷への思いをいったん断ち切り 都祁で新たなコミュニティづくり」奈良県被災者の会代表 高橋修介さん

スズランの群生地から遠くない山間に、「最近、息子さんが後を継いだ」との評判を聞いた酒蔵を訪ねた。
道路から少し坂道を登ると、駐車場、そしてその上の方に、杉玉を吊り下げた玄関が見えた。倉本酒造。ローマ字で「KURAMOTO」と書かれたラベルの酒が、
SNSのわたしのタイムライン上にはこの頃しばしば現れる。その蔵元がここだ。

玄関を入らせていただくと土間があり、「く」の字に囲むように、土間から座敷までの段差があり、ちょっとした接客用の空間になっている。
今回のコーディネーターは、天理市にある登酒店の登さん。無濾過生原酒の地酒にこだわり、「自分が心から旨いと思った酒、心から応援したいと思う酒蔵のだけを売る」のを信条とし、その品揃えでは奈良県一と目される個性的な酒店だ。倉本さんのお酒は、最近取り扱い始めた。登さんは、取り引きのある酒蔵を必ず自分の足で訪ね、蔵の思いや酒造りの実際を確かめる。「それを、お客様に伝えるのが酒屋の仕事なんだよ」という。同行しているのは、そんな登さんの心意気に共感し、登酒店が取り扱うお酒のみを出す食堂の責任者(まあ、わたしの夫ですが)。そこに便乗する形で、またとない機会をつかんだという次第。

創業は明治4年、目の前でお話を伺っているのは父の倉本嘉文さん。我々の後ろで、九ヶ月になる赤ちゃんを抱いてあやしながら、話を聞いているのが継承者の隆司さんだ。

嘉文さんが語る。
「わたしは子どもの頃から酒蔵を遊び場にして育ちましたが、継ぐつもりは全くなくて、大学へ進もうとしたしたとき志望校に次々と落ちてしまい、残ったのが東京農業大学だったというわけです。
昭和50年代までは、未納税の酒を1500石ほど、作っていました。そこ頃は、杜氏さんがいて、我々は口出しするなという空気がありました。大手との取引がなくなってからは、家族でやるようになり、地元の酒屋から頼まれて醸造することを中心に、自社ブランド「金嶽」を地域で販売すること、農業や林業を兼業してきました。地元の酒蔵も、外注して醸造した商品は思い入れが薄くなるのか、次第に注文が減っていきました。そんな中で、息子には継がなくていいい、継いではいけないと言ってきたのです」

今度は隆司さんにきく。
「大学卒業後は、継がせてもらえないので、いったんは乳酸菌関係の会社に就職しました。10年くらい務めた後で、帰ってきたんです。」

就職先も、酒の醸造に無関係とは言えない企業を選んだところに、いつかは継承したいう思いがあったことうかがわれた。ご本人に確かめてみると、やはりそのようだった。

父、嘉文さんのお話が終わると、隆司さんが酒蔵を案内してくれた。
まず目に飛び込んできたのは、新しい機械。精米機や蒸し器、麹室。隆司さんの酒造りに必要なものを新たに揃えた。視線を移すと、未納税の酒造り時代に活躍していた人の背丈以上のタンクが林立している。いずれは撤去したいのだそうだ。今醸しているのはもっと小型のもの。創業は明治だから酒蔵の履歴があちらこちらに残っている。

隆司さん:「水は裏の山から引いています。うちの山です」

お酒は水の味に大きく左右されるから、酒蔵は水を大切に考える。お酒はお米から作られるから、田んぼの存続を大切に考える。私はそこに願いを込める。

「お水と田んぼのある環境を大切にする酒蔵であってください」というふうな意味のことを、口を滑らせて話した。隆司さんには、通じるような気がした。酒造りは、まだ勉強中。いつか自分の酒を、、、と模索中だ。それでも、この若者を応援しようと心を動かされる人が多いことを、私の周辺からは感じている。

いつかまたゆっくりとお話しできる機会に恵まれたなら、今度はなぜ、そんなに継ぎたかったのか、隆司さんの物語を聞いてみたいと思った。さとびごころ では地酒を再び取り上げたいと構想しているので、再び取材に来ることがあるかもしれないとも思う。

倉本さんの奥様(隆司さんのお母様)、ブルーベリー、ありがとうございました。

« Prev - Next »