東北旅-5 三内丸山遺跡(続き)

2016年04月21日

 

北の谷のとなりには「北の盛土」もあり、土器や石器が捨てられた場所を見学できます。

 

さあ、そして6本柱の下に来ました。

 

三内丸山といえば、この6本柱のイメージですが、これも柱跡から推測して「このようなものが建っていたのではないか?」という仮説をもとに作られているもので、レプリカです。

実際の遺跡は、屋根に覆われ、湿度・温度などが管理された状態で保存されていました。

 

 

 

6個の穴を見たのですが、カメラにおさまらず。

出雲大社も、大きな社殿があったことをかつては信じられていませんでしたが、巨大な柱跡(しかも3本くくり)が見つかり

「あれは本当だった」とみんなが驚きました。それを思い出しました。

 

レプリカであっても、見上げる6本柱は、何か説得力を感じました。

これが本当にこんな姿だったのどうかもわからない。

何故ここにこれがあったのかもわからない。

わかることは、栗の巨木で柱を立てていたこと。そんな栗が、ここにあったこと。

そんな栗を縄文の人は、伐採も活用もできたこと。

 

大きなものを見ると、心が落ち着くのです。

 

続いて、さっきは遠くから見ていた大型竪穴住居。

 

 

 

「公民館のようなものだったのではないか」と、ガイドのおじさん。

わたしたちは、「じゃあ、縄文の人たち、絶対ここでライブしたよね」とわくわく。
やっぱり、うちは何かというとライブを連想してしまうようです。

 

敷地のはずれの、工場のような倉庫のような建物は何かと思ったら

最近までここで研究活動をされていた研究棟だそうです。今は移動しています。

 

 

ここから、再び博物館へ戻りました。

ボランティアガイドの時間がきたので、途中で抜け出したのです。でも、もう少し続きが見たくて。

撮影OKに感謝して撮影。↑

 

続きは、土器の修復のところです。

現代の、研究者・修復技術者の方たちの取り組みのおかげもあって、こうして見せていただけてます。

 

 

写真にするとミニニュア感が消えますが、かわいかったので。

こんな感じだったのでしょうかねえ。今わたしたちがやってるキャンプと、そんなに変わらないですね。

だから、キャンプするとなんだか、何かを思いだしたような気持ちになるのでしょうか。

展示が終わるころ、三台丸山の文化が消えていく暗示が現れました。

気候が変化して寒くなったのか、何があったのか、約5000年前から1000年続いた三内丸山の村は約4000年前に消えました。

縄文文化はその後も後期、晩期と続き、弥生時代へとつながっていきます。

そのどこかで、稲作が伝わったと教えられましたが、、、、このあたりのいきさつは学校ではあまり教えられませんでしたね。

縄文、弥生、ハイ古墳時代、ハイ大和朝廷ですが、奈良時代からぼちぼち詳しくなり、大化の改新から本気モードって感じで。
でも、一番長く続いた縄文時代こそ、もっと知りたいことがたくさんあるように思います。

少しずつ、賦に落としながら、いろいろと知っていこうと思っています。

展示が終わった次の部屋にあったのがこれ( 世界の中のJOMON)。

四大河文明(とは、今は教えないとも聞きましたが)が、けっこう「若い」印象。
それらが出現したときに、日本ではそのはるか以前から縄文文化が出現しているんですよね。。。

縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。(wiki)

日本人は世界でトップクラスの古い民族ですよね。それが先進国となった今でも続いているって、すごいですよね。

この愛しい国を次世代につなげたいです。

 

 三内丸山遺跡にムラが営まれた約5,500〜4,00年前頃、世界では各地に文明が出現しました。黄河や長江流域では中国文明、インダス川流域にはインダス文明、チグリス・ユーフラテス川にはメソポタミア文明、ナイル川流域にはエジプト文明が栄えていました。また、ヨーロッパやアジア、アメリカの各大陸でも人々の生活の跡が確認されています。
縄文文化は、土器や漆などの優れた技術と、土偶などに見られるように豊かな精神世界を持ち、本格的な農耕や牧畜を持たず、採集、狩猟、漁労によって食料を得ていました。自然と共生した縄文文化は約10,000年間続きました。

10,000年間ですよ。争いをしていたら、こんなに続かなかったのではないでしょうか。
争いは、食料の奪い合いが元になるのではないでしょうか。
日本の縄文時代は、争わなくても、いくらでも食べ物があった。食べても食べても、いくらでもあった。
それは日本の自然の豊かさの恩恵ですよね。豊かな森、豊かな海、それをつなぐ川があって、
人々は自然に干渉するといっても小さなインパクトだけで暮らせていた。
「生きていける」という大前提のもとでは、心に余裕が生まれる。
心に余裕があれば、人を思うこともできるし、芸術にいそしむことも、精神世界を豊かにすることもできる。

それは、外国の話ではなく、今暮らしているこの日本のことです。パラダイスが、ここにあった。

上記の最後のメッセージが言うように、「現代にも受け継がれている縄文文化」的なるもの、

それを感じて、生かしていくことが、幸福な未来につながる気がしてなりません。

 

さて、あらためて館内を見てみると、よく整備された恵まれた施設です。

ひろびろ!すいてる!

がやがやしていないところが、わたしたちにはとっても有り難かったのですが

もう少し、たくさんの人に見てもらったらいいんじゃないかなーと思います。もったいない。

ここなら友だちと話しこんでも、大丈夫そうな。。。

館を出るときに、ありがとう、さようならの気持ちで撮影(↑)

楽しかったです。この気持ちを持ち帰り、また来ることがあれば、さらに深く感じることができますように。

 

さて、次は白神山地の近くへ行ってみます。ブナの森。西日本では、なかなか見ることができません。
よく素材写真などで、「森」というテーマで見つかるのは、たいていブナですよね。森といえばブナ。葉っぱらしい葉っぱ、ブナ。
夏の青葉は、どんなに見ごたえがあることでしょう。
でも今は冬。すでに通って来た道沿いの山をみても、冬枯れの景色ばかりですが、それでもここまで来たからには
せめて白神のビジターセンターくらいは行っておきたくて。
 
今夜の宿は仙台なので、その移動時間も考えながら、青森県の北のほうから南西のほうへ。。。

つづく