すずしい朝です

2018年08月18日


昨夜、この夏初めて、夜にエアコンを切る日を迎えました。季節は秋に移っていますね。

 

このところ、よくブログを書いています。
 
 

とはいいながら、自分の思っていることを(何もかも、ではないにしても)(閲覧する人が多い少ないは別として)公開する、ということに抵抗がありました。
え?と思います?今でもあるんですよ。(雑誌なんか作ってるくせに)
 

きっと、インターネットというものの出会いが、とうに大人になってからだったせいですね。
 

10年以上前、ブログという言葉と出会い、意味を調べてみると「記録」とか「日記」などとあるではありませんか。
日記????そんなの、公開すんの???
 

かすかに、どこかに、「顔も知らないような人がもし読んでくれるんだったら、楽しいかも、、、」という気持ちがないでもなかったのですが、ことさらに「ブログやっています」「読んでください」という気持ちには、絶対になれませんでした。ありえないことでした。
 
なぜ人々はブログを書くのでしょう。どうやら、仕事と関係しているみたいなのです。
お店の店主がブログをつづる。→お店にお客さんがやってくることを狙う。
人気ブログを書く→アフェリエイトなど、広告収入を狙う。(これが肥大化して仕事も生んで成功する人もいる)
自分たちの活動を知ってほしい→社会的な啓発を狙う。
要は、自分なりビジネスなりをアピールするためのものらしい。
 
自分の場合、お客様はほぼ固定しており、新たに仕事がきてもこなせないですし(これは今後変えていくつもりですが)
アピールしたいことなど、、、見当たらず。自分の考えはいつも持ちたいほうですが、それを人にアピールするかどうかは別の話。ブログを書くことの向こう側に、これといった着地点が見えないのです。
期待がないともいうか。
 
しかし、このごろ、「やはり書こうかな」という気持ちになる時が、ちらほら出て来ました。
なぜなんでしょう?
 
理由1 書く、ということがキライでなはい。(自由に書けばいいのではないか)
理由2 「万が一、読まれてしまうかもしれない」という前提で書くことへの精神的トレーニング
理由3 時々、書いておかねば、という動機にかられることがある。
 
やはり、これといった狙いはなさそうだなあ。一番感じるのは「トレーニング」の部分でしょうか。
わたしは、自己紹介が苦手な子どもでした。今でも苦手ですが。
この「苦手」と向き合ってみようと思い始めているのです。
 
雑誌を引き継ぐことを決めるとき、一番ブレーキになったことは、「記事を企画できるだろうか」「編集できるだろうか」「お金がまわるだろうか」ということよりも、「認知度を上げられるだろうか」という点において、〝身も凍る〟ような不安を感じたためです。「こんな雑誌を作っています」「こんな雑誌があるんです」という活動をしていかない限り、出す意味もないし、善意で執筆してくださるライターさんたちに申し訳ない。だから、どうしても、あの苦手な「アピール」というものからは逃げられないと思ったのです。
 
それには、トレーニングが必要だと考えました。2017年は、「来年から始まってしまう、、、、」という〝身も凍る〟不安を後頭部に感じながら一年間、シュミレーション。今年になって、雑誌を引き継いでからは、苦手チャレンジが始まっています。(見た目には変わりなく見えると思いますが、内心では大チャレンジなんですー)
 
自分という人がどんな人なのか(どの程度しょうもないのかも含めて)公開する。そういうことを、わざとしてみる。それは、わたしが長い間、ずっとずっとずっと逃げてきたことから、逃げないことにした(のか?どうなんやろ?)というチャレンジであり、トレーニングです。(はあ、、、、ぜいぜい)
 
ちなみに、わたしのまわりのライター職(広告系でなく報道系)の人たちは、自分のことをアピールされない人が多いです。信念があり、行動力もありつつ、自分は黒子で、しかし文章にははっきりとした責任や誇りも持つ人が多いです。編集者も黒子職であり、編集者としてクレジットを入れたりするのは、ちょっと変に思うこともあります。わたしも黒子がカッコいいと感じる習性があり、それとこれとがバッティングするのかもしれません。
 
ただ、わたしがやろうとしていることは、自分が紹介していかない限り誰もプロモーションしてもらえないような地味なことなので、やはり、頑張るしかないなあと、日々、自分を励ましております。まだまだ!!道ははてしない!
 
 
 
ああ、さわやかな朝だ!鳥がチュンチュン鳴いています。