これからの方向性。共感する考え方。
これからに迷う人が多いと思う。
だから「これからの」とか「あたらしい」とか、「もうひとつの」という枕詞はいつも魅力的だ。
そこに何かヒントがあるような気がしてしまう。
けれど、ある一定の企業なりの利益へと誘導されることも多い。
だから、結局は自分はどう思うのか、どうしたいのかということを
自分なりに(絶対に正しいと思わなくてよいから)いつも持っていることだと思う。
広井良典さんという方の考えに出会うと
学者さんの中にも自分と似た考えの人がいたのかと少し癒される気がする。
学問的な表現を避けているわたしと違って
学問的にも信用できる言葉で意見を述べてくださる。
自然を人間から切り離してコントロールするというのが近代科学の世界観ですし、
資本主義というのは自然からエネルギーを搾り取って経済発展していくという仕組み
そうですよね。
つまり人間は個人、個体でできているのではなく、他者とのつながり、
利他性、協調性といったものこそが本質的なんだということを論じる研究が、
文系理系を問わず、ここ10年20年でわっと起きつつあるんです。
そうなんですか。。。
イーロンマスクさんという人は、
人類が火星に移住するとか、地球と同じような星が2、3個見つかって資源の心配がなくなったら、
これまでの狩猟採集、農耕、産業化に続く第4の拡大成長がはじまるかもしれない。との意見だそうです。
それに対して、、、
コミュニティの再構築ではなく、第4の拡大成長を目指す方向というのは、まさに今言われた地球脱出だとか、アメリカの未来学者 カーツ・ワイルが展開しているシンギュラリティ(=AIが人間を超える知能を持つこと)や最高度に発達したAIと改造された人間が結びつくポストヒューマンといった議論です。ただ、私は、人間がそれで幸福を得られるとは思えないので、やはりコミュニティを軸とした持続可能性の方に軸足を移していくのではないかと思っています。
やはりコミュニティーというのは、かなり重要なキーワードになりそうだ。。。
そのつながりとは、こんなイメージ
近代的な自己を超えた先につながりを模索していくというのがこれからの時代の新たな方向だと思います。
これこそはと信じられるものが、この世にあるだろうか(たくろう)
歴史を振り返ると、江戸時代までの日本はそのあたりを神と仏と儒教が支えていました。それが明治以降は国家神道となり、戦争に負けた後はとにかく経済成長。でも、今では経済成長もままならないので、本当に何を拠り所にしたらいいのか見えなくなっているという状況だと思います。
これは(敗戦によって)してやられた感が否めない。信じるものを失った人々は、お金を信じるしかなくなっていった。そしてお金は自然から切り離されていった。
そんなばかな話はないだろう。もう目覚めよう。本来のわたしたちへ。
一つの可能性として「地球倫理」というものが考えられるのではないかと思います。
シンギュラリティやポストヒューマンが幸せとは考えにくいわたしは、こんな考えを多くの人と分かち合いたいと思う。
頼みます。共感する方、連絡ください。お茶のみませんか。
そのヒントというか土台として、私は「自然」というものが最も重要になってくると思っています。この場合の自然というのは、単に草木や水や空気といった物質的なものではなく、日本では八百万(やおよろず)の神様と言われてきたように、ある種の内発的な力をもったもの、さらに言えば有と無、生と死をも含みこんだ自然――私は「自然のスピリチュアリティ」と呼んでいますが――というものがこの世界の根底にあるのではないか。そういう考えに達したのは40歳を過ぎた頃ですが、以来それが私の拠り所に――その後も迷いを繰り返してはいますが――なっています。
経済成長一辺倒ではなく、自分の好きなことをマイペースでやっていくというのが人口減少社会の特徴だと思いますので、そのときに、話が元に戻りますけど、拠り所となる倫理や規範を求める意識が自ずと出てくる、ということではないでしょうか。
なんだか答え合わせをしているような気になってくる。
「好きなことをマイペースでやっていく」ということで言うと「身の丈しごと研究室」をすることで、好きなことと生業を自分らしくつなげていくことを研究している。
自然というものを重要視して、それと協調できる範囲での21世紀型の暮らしを探している。それを100年住み続けたい地域と呼び、知り得た地元の情報や動きを自分で雑誌を作って伝えいる。
そして、願わくば、、、自然の霊性を感じられるように、いつかはなりたくて。
そうすればもう静かに、死を楽しみにしながら最後の日々を過ごせるのではないかと。