祭のある町

2015年07月06日

子どもの頃、夏や秋になると
「今日は○○でお祭り。いく〜?おこずかいはいくら持ってく〜?」と
学校で話したものです。
宵闇に白熱電灯がともり、出店が並び、お囃子の音なども聞こえて
わくわくしました。

18才で故郷を離れてから
そんな祭が恋しくなることがあります。
でも、たぶんわたしが子どもの頃の祭りのかたちは
もうないはずです。
町並みのなにもかもが、変わってしまいましたから。

そして大人になってから住む町では
地域の祭には縁がなく、
観光客のように見せていただくことが多いです。
あるいは、祭そのものがありません。

今見ているテレビドラマの中では
職人気質で無口なおじいちゃんが、
祭となると別人のようにハイテンションになる、
という設定になっています。
これがたまらなく、ほほ笑ましいのであります。

祭は神社やお寺への
信仰がもとになっていると思いますが
じつは「信仰」という建て前を
いただいているのではないでしょうか。
お伊勢参りが「信仰」をもとにしたものでありながら
当時「旅行」が許される建て前だったように。

祭だけは、いつも隠している自分を発露させられる。
祭という建て前にむかって、
みんなが力をあわせることで生まれる気持ちの高まり。
お酒も飲む。叫ぶ。はっちゃける。
我が故郷の祭は、今思えば静かなほうでしたが
もともとがそれ以上に静かな地域でしたし。

祭はその土地で生まれ育った人が担ってこそ、
意味のあるものかもしれません。
義務でやるなら、負担になるかもしれません。
本来の祭が生きている地域では
祭へのエネルギーは町の元気になっているのでは。

311の直後、祭の担い手を津波で失いながら
残された人が「どうしても祭を、今年もやりたい」と
くじけなかったドキュメントを見ましたが
わたしは祭がどんなに深いものか、
とても考えさせられました。
祭が途絶えるということは、
何かが消えること、消えたことを認めること。
祭を続けるということは、
何かを守ること。

祭と縁のないところでは
そのかわりに人々が見つけた祭にかわるものを感じます。
「ビアガーデン」なども、なんとなく、そういうものを感じます。

奈良クラブのサポーターにも、祭を感じます。
ライブやマルシェにも感じます。

祭はかたちをかえながらも
ずっと残るような気がするんですよね。
「信仰」がなくなってしまうと
祭のほんとうの意味はなくなるのでしょう。
でも、祭が持っていた機能は
ほんとはみんなが求めているものなんじゃないかな。