定住したけれど、狩猟採集した縄文の人々。
「天国のライフスタイル」(先日の記事でわたしが勝手に縄文時代を天国と呼んだため)について
想像を刺激してくれる記述があります。
環境歴史学者の石弘之氏は、最近だされたやさしい地球環境史の御本の中で、現代に残る狩猟採集の民の生活について次のように述べておられます。
アフリカ南部のコイサン族(ブッシュマン)の例をみると、食べ物を手に入れるために必要な労働量は、平均して週に二日程度である。農耕とは異なり、労働量は一年中ほぼ一定で、食料調達のために一日一〇キロ以上を歩きまわることはまずない。
女性は毎日一〜三時間働き、残りの時間は余暇を楽しんで暮らしている。男も一週間狩をすれば何もせずに過ごす。グループの人工の4割は、食料調達のための仕事をまったくしていない。彼らの栄養状態も、私たちの食事と比べてなんら遜色がない。それどころか、カロリー摂取量は必要レベルを上回っているし、蛋白質摂取量にいたっては必要量より約三割も多い。
狩猟採集の暮らしは、かなりのんびりしていますね。食料調達のために働くのは週2日。おおー。
この「食料調達のために働く」以外の時間を使って、道具づくりなどをするのですね。
そこから、自然に感謝して目に見えないものを感じ取って、クリエイティブな作品もできるのでしょう。
ネイティブアメリカンやアボリジニのアートなどを見ると、その系譜を感じます。
縄文土器も、そんなふうに作られたのでしょうか。
(もちろん、調理のためという実用的な理由はあると思いますが)
三内丸山遺跡の人たちは、広大な栗の森を集落のまわりに作っていたそうです。
これを農耕(栽培)と呼ぶのか、採集と呼ぶのか、どっちでしょう。
ハイブリッド。
意図的に栗の木を植えて森にするのだけど、あとは「採集」。
近自然の考えでは、「自然がやってくれることは自然にお任せしたほうがローコスト」
というのがありますが、それに共通するものを感じます。
もっと自然にお任せする、ということは
これからの時代にも必要なことですね。
定住するということは、もし、採集ばかりして、
人口増加とともにいつか「採集しすぎる」状態になったら・・・・
10000年も続かないですよね。
「採りすぎないようにする」「次の世代を育てておく」
という調節があったから続いたのだと思います。
栗の森がそんなことを教えてくれているような。
森林の破壊が世界の問題になっていると言いますが、
伐りっぱなしなのですね、きっと。
蛇足ですがわたくし、昔から「食べられる雑草」に興味があるわけですが
「自然に生えてくれて、しかも邪魔扱いされる雑草を食べれば、野菜にかかるコストを下げられる!!」
という憧れから来ています!(そうだ、ベランダで雑草を栽培しよう)
将来庭のある家に住むつもりなのですけど(妄想です)
その庭は、きっと雑草だらけになるかもしれません。
(気に入った雑草だけを抜かないでおくと、どうなるのか興味がある・・・)
PS 本日引用した本の出典を紹介しておきます。
「日本人の遺伝子」徳川恒孝著 PHP研究所
著者の徳川さんは、徳川家第一八代当主です。