分断された境界を溶かすのは両立と調和の思想

2020年07月06日

高度経済成長期に生まれ育った世代としては
幼い頃には疑問を感じていなかったことでも
バブルや、その崩壊や、リーマンショックや、震災などを通して
世の中の流れをみていくにつれ

いったい、どうなんているんだろう??

と思うことが増えていった。

戦後は、田舎から都会へ人が流れ東京に集中した。
田舎と都会は分断されていった。

核家族化が進み、家族も分断された。

森でいうと、森と暮らしも分断された。

川でいうと、直線化されコンクリート護岸されダムがつくられ、
その一方で、水が汚れた。生き物が減った。

人間の都合と、自然の摂理が分断し、そのひずみが顕在化してきたのがここ数十年の流れだったように思う。

わたしは自然が売り飛ばされていく様をみて、
どうすればいいのかわからなくなった。
それまで良いことと信じられていた経済的発展を疑うようになったのに
自分は都会的な暮らしを求めてきたはずだった。
自分は変わらずに、社会に変わってほしいと思うのは、どうなんだろう。
自分はどうありたいのだろう。

資本主義を肯定する人、否定する人。
経済発展を肯定する人、否定する人。
開発を肯定する人、否定する人。
意見や価値観の対立は人も分断する。

否定と肯定の二者択一をしようとすれば思考停止になる。

ヒントは、両立にあると思う。
どちらも否定できるものではない。

そういえば、この世界を陰陽で捉える考え方をみると
陰がダメで陽がいい、というものではなく
どちらもあるのがあたりまえで、それが調和した状態が健全なのだという。

陰翳礼讃という言葉もある。
陰があるからこそ、光も美しい。

調和の天才は自然だ。
いつも、いつも、いつも、自ら然る方へ、調和のほうへと変化しようとする。

だったら、できるだけ自然に倣ってみればいい。
調和が崩れて、どちらかに偏っているなら、
反対側を補強してバランスをとればいい。
自然から離れたのならば、自然に近づけばいい。

今、都市に人が集中しすぎているなら、
地方に引っ越したり、引っ越さないまでも地域によりそった態度で関わってみる。

家族がばらばらならば、
もう一度心を開いて、コミュケーションを大切にする。

経済だけを優先しすぎたならば
経済だけで測れない大切さに気づき、尊重する。

忙ししすぎるなら
どうすればもっと自分の時間を大切にできるか工夫する。

合理化しすぎたなら
非合理な中にあった多様性に目を見開いてみる。

使い捨てしすぎたのなら
長く使えるものを求める。

どっちに偏っているのかを認めなければ
どっちを補強すればいいのかもわからない。

偏りは問題や課題として浮き上がる。
認めるのはつらいこともあるけど、認めたほうがいい。
さっきまで、それを望んでいたのは自分自身だったということを。

だから、どうしようか?と考えることができる。

調和したものは美しい。
美しさというのはひとつの答えなのかもしれない。
そこには幸せもあるように思う。