友人が被災した川の上流で、ダムが必要だったと言われはじめている。
7月5日、友人が「ほぼ廃業に近い形」になるとタイムラインに投稿していた。
日本で初めてダムを撤去した川のほとりに家族で移住し、
地域振興と川の研究をしながら、リバーガイドをしている人だ。
自分が編集している雑誌の取材のために訪問し、
その日のうちに心を許せる人だと感じた。
数日のうちに、この氾濫が「ダムを作らなかったせいだ」という記事が
見受けられるようになった。
素人が口をはさむことはできないけれど
ダムって何なんだろう、、、と考え続けてきたうちの一人ではある。
ダムが必要だという声のほうが世間では大きい。
だけど、ダムは必要ないと唱え続ける学者もいる。
いくつかのことが、脈絡もなく頭をめぐっていく。
2011年、紀伊半島の大水害のとき、命からがら生き延びた知人がいた。
寝ている間に、奇跡的に目を覚まして助かった。
直接の原因は、ダムの放流だった。そのため、支流にまで水が逆流し
予測不能なスピートで、天井近くまで浸水したという。
74時間で1650ミリという豪雨では
ダムは溢れる前に、緊急に放流される。
過去最高と言われるような豪雨が、毎年のように降る。
リバーガイドをしている友人が移住した町では、住民たちによる悲願ともいえる
ダム撤去運動が長年にわたって行われていた。それがやっと実ったばかりだ。
ダムは洪水を防ぐどころか、ダムの底にたまる土砂のために水かさがあがり
ダムのすぐ上の村は度々浸水したという。
もともと、水害の多い地域で、人々はそれを心得、
貴重品は2階におき、いつでも逃げられるような生活の知恵とともに暮らした。
ただし、昔の洪水は、水がきれいだったけど
ダムができてからの洪水は泥水で臭くて掃除が大変になったと現地で聞いた。
ダムがあるほうが危険。という判断からの撤去運動だった。
ダムには、危険なダムもあると知った。
ダムの底に溜まった土砂の浚渫は、エンドレスな経費がかかり続ける。
森の養分は、海に届かず、邪魔者にされる。
土砂をどこに運び、どこに置いているのか、都会の人は誰も知らない。
かつて、我が家が子供らを連れてアウトドア遊びに行った村の中にあったダムは今、
ダムではなくなっている。
土砂でうまり、グラウンドのようになっている。
このダムは本当に必要だったのだろうかと、思わざるをえない。
森の手入れが悪いから、、、と放置林が槍玉にあがることもある。
わたしが直接話を聞いた ある林業家は「山に木があることが一番の防災になる。
たとえ放置林でも、支え合って立っている。そこを皆伐した箇所が弱くなる」と語った。
ダムはもともと、電力発電のために作られるようになった。
利水だ。
電力発電の前には、農業用水の確保のために
川に堰を築き、用水を田んぼに流した。
江戸時代であれば、それは血のにじむような苦役をともなう土木工事だった。
参考 大石堰
人は川を必要とする。それはまぎれもないことだ。
時代とともに必要とする理由も変わる。それもまぎれもないことだ。
豪雨は毎年のように悲惨な洪水を起こしている。
この度の報道では、ダムは「治水」のために必要だったと言われている。
本当に、本当に、ダムだけで治水ができるのだろうか。
放置林に手をいれるだけでは限界があり、一定以上の水害の前には無力だとするなら
ダムも同じではないだろうか。
そうであるなら、洪水を「防止」するのには限界があることを認め
水害をどのように軽減するかという知恵のために
予算が使われて欲しいと思う。
川が溢れる前に、川沿いの人にどうやって危険を知らせるか。
川が溢れたら、どうやって逃げるのか。
生き延びた後、残された人がどのようにケアを受けられるのか。
同じ土木工事にしても、自然に対抗し制圧するよりも
もう少し自然の摂理を活かしたあり方や
「自然には結局はかなわない」という前提での考え方が
専門家のみなさんの間で共有され、研究されることを望む。
コンクリートという強靭なもののおかげで
われわれはどんなに安堵していられることだろう。
そのありがたみを否定するばかりではいけないと思う。
ただ、それ一辺倒になりすぎたら
自然にはかなわないことや
副作用として失うもろもろのことについてを
軽く見てしまうことはないだろうか、と思うのだ。
少し話がそれるけれど
まちづくりそもものも、氾濫原を想定して安全な場所につくるなど
これから考えることもできるはずだ。
昔から人が避けてきた場所を無理やり開発してはいないか。
あるいは
川の近くギリギリまで宅地を作ったり
山を切り崩して宅地を作ったりすることは
現代の技術があれば可能なのはわかるけど
大きく見れば、どこまでいっても自然とのいたちごっこになる。
友人に聞いてみるまでもないが
きっと彼はこれ以上のダムを望んでいないだろうと思う。
もちろん、有効で必要なダムや堰もあるだろう。
そのために自然が壊れることは、人間が生きていくうえで許される範囲があるだろう。
是か、非か、二元論だけで考えると思考停止になる。
その土地の風土によりそった、安心できる地域づくりがあるはずだと考えて
少しでもそのヒントになることを探していきたい。